世界に誇るジュエラーMIKIMOTO(ミキモト)について

2017/10/12

世界に誇る日本のジュエラー、ミキモトの画像
世界初の真珠の養殖に成功したジュエリーブランド「ミキモト」。
2017年10月には東京、名古屋、大阪にて展示会も予定しています。

「うどん屋」の長男。御木本幸吉。

今からおよそ100年ほど前、真珠は貴族や王家の人間だけが身につけることの出来るとても高価なものでした。
その概念に革命を起こしたのがミキモトの創業者である御木本幸吉でした。
1858年3月10日。三重県の鳥羽市にあるうどん屋の長男として御木本幸吉は生まれました。
うどん屋を構えてはいたものの、彼の父親は機械の製造に関心を持ち、祖父は商売に長けており「うしろに目があるような人」なんて呼ばれていたそうです。
これだけ聞くとなんだか職人肌を感じさせない変わったうどん屋ですね。
ちなみに御木本幸吉は、この先うどん屋で生計を立てていくのは厳しいと感じ、10代の頃から青物の商売を始めます。
商売の経験を積んだ彼は二十歳になると東京・横浜港へ視察旅行に出かけます

日本の真珠を守れ

御木本幸吉は横浜にある外国商国館へと足を運びます。
そこで目にしたのは日本で採れた天然真珠が高値で取引されているところでした。
実は日本は昔から質の良い真珠が採れると海外で高い評価を得ていました。
当時は明治維新により国際交流が盛んになりヨーロッパからの商人が度々訪れては日本の真珠を買い占めていたと言われております。
その光景を目の当たりにした御木本幸吉は商人としての血が騒ぎ、すぐに真珠商売に着手します。

ところが、同時期に真珠を作るアコヤ貝が乱獲などにより絶滅寸前に。
そこで御木本幸吉は真珠の養殖を決意します。
彼が所属していた大日本水産会幹事長である柳楢悦の協力により海の使用が認められ、養殖への挑戦が始まりました。
養殖実験が開始されてから3か月後。
アコヤ貝の”稚貝”を育てることに成功。
稚貝は成長しいよいよ真珠が取り出されるかと思いきや、貝の蓋を開けてみると入っているはずの真珠が見当たりません。
この時、御木本幸吉はアコヤ貝を養殖出来れば真珠が採れると思っていました。
しかし、実際はアコヤ貝に真珠を作らせる”もうひと手間”が必要だったのです。
アコヤ貝養殖から、効率良く真珠が得られる方法を見つける為、御木本幸吉は真珠研究の第一人者「箕作佳吉」の元へと足を運ぶのでした。

夫婦二人三脚で掴み取った養殖真珠

東京帝国大学教授の箕作佳吉によると、アコ貝の中に”ある特定の異物”が入り込みそれを包み込むように作られるのが真珠なのだと。
さらに箕作はこう言い加えます。
「これは誰も成功していない。しかし、理論上は可能である。」
御木本幸吉は成功例のない、未知なる世界への入口に立つことになったのです。
ヒントを得た御木本幸吉は早速、養殖場に行き実験が始まりました。
石や割れた貝殻など、海に落ちているものならなんでも。
貝が吐き出して失敗しては何度も何度も実験を繰り返します。

ーー成果を得られないまま時間だけが過ぎていきます。ーー

そんな時、彼に追い打ちをかけるかのように養殖場に赤潮が発生。
育てたアコ貝が全滅。これには御木本幸吉も耐えられませんでした。

ーーもう、辞めよう。--

初めての弱音でした。
資金も苦しくなり、いよいよ限界かと思われました。

「まだ相島の貝が残っています。」
妻であるうめの一言が彼の心を奮い立たせます。
予備で設けていたもう一つの養殖場に御木本幸吉は望みを託しました。
そして、実験が開始されて3年が経った1893年7月11日。
遂に真珠の養殖に成功しました。
今まで誰も成せなかった真珠養殖。
二人の諦めない気持ちに真珠たちが応えた瞬間でした。

現在では、真珠だけではなくダイヤモンドや色石を組み合わせたリングやネックレスもデザインしているMIKIMOTO(ミキモト)
日本を代表するハイジュエリーブランドであることを、ゴールドプラザは意識し日々お買取させて頂いております。

Written by 上田勝太

上田 勝太

ゴールドプラザ 主任鑑定士
1985年生まれ 鑑定士歴15年
月次の最高買取金額10億円 各ニュースに出演