グッチ一族の栄枯盛衰
2018/02/08
歴史を遡ると、今も昔も一族がその権力や遺産をめぐり争うことは絶えません。
世界有数の著名なブランドである「グッチ(GUCCI)」も同じく、その運命を辿りました。
創業からの繁栄と、世界を驚かせたスキャンダラスな一族崩壊の歴史を語ります。
創業者グッチオ・グッチとブランド「グッチ(GUCCI)」の誕生
グッチ(GUCCI)の創業者である、グッチオ・グッチは1881年にイタリア・フィレンツェで帽子製造を営む家に生まれました。
若きグッチオは、当時産業革命で目覚ましい発展を遂げたイギリス・ロンドンに渡り、いくつかの仕事を経て、近代ホテルの先駆けと言われる高級ホテル「サヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)」で働き始めます。
そこで目にしたものは、イギリス上流階級の人々の洗練された立ち振る舞いや、物や道具に対する哲学や価値観でした。
今でいうマーケティングというべきでしょうか、この経験は後のグッチ(GUCCI)というブランドにとって大いに影響されることになります。
その後、故郷のフィレンツェに戻ったグッチオは、皮革製品の製作技術を習得し、自らがロンドンで培った感性を活かし、バッグや馬具などの高級皮革製品を扱う会社を、第一次世界大戦後の1921年に設立します。
翌、1922年にフィレンツェに自分の店を開き、1923年に「GUCCI」の店名を掲げ、ブランド「グッチ(GUCCI)」としての第一歩が始まります。
皮革製品への強いこだわりと、品質の高さ、革新的で洗練されたデザインは瞬く間に人気のお店に成長していきます。
また、イタリア国内のみならず、海外からも注目を浴びるようになります。
第二次世界大戦が始まると、イタリアでも物資不足から、皮革は統制品となり使用が困難になりました。
そんな中でグッチオは、バッグの製作に必要な皮革の代用品として、キャンバス地にコーティングを施し、持ち手部分に竹を使用した製品を発表します。
これが思わぬ人気を博し、今でもグッチ(GUCCI)を象徴するアイコン素材の「バンブー」に至ります。
終戦後には、イギリス、フランス、アメリカなどに進出し、世界的な有名ブランドへと成長しました。
グッチ(GUCCI)といえば、ダブルGのモノグラムが有名ですが、「GG」はグッチオ・グッチのイニシャルであり、世界で初めてデザイナーの名前入りの品質保証として刻印したものです。
事業で大成功をおさめたグッチオ・グッチは、1953年に72年の生涯を閉じ、その後、その息子たちにグッチ(GUCCI)のブランドは引き継がれていきます。
グッチ一族の栄華と衰退の始まり
グッチオの死後、グッチ(GUCCI)の事業を主に継いだのは、三男のアルドと五男のルドルフォです。
三男アルドは、グッチ(GUCCI)の発展にもっとも貢献した人物と言っても過言ではなく、生前の父親と経営方針でぶつかりながらも押し切り、海外進出を進め世界的な地位にブランドを確立させていきます。
前述のダブルGのモノグラムもアルドのアイデアと言われ、グッチ(GUCCI)の代表作であるビットモカシンや香水などのラインナップもアルドが進めたものです。
アメリカ・ニューヨークでは「ニューヨークはグッチの街」と言われるほど人気が出ました。
一方の五男ルドルフォは、若い頃は家業には携わらず、映画俳優を目指していましたが芽が出ず、父親のグッチオからの声かけによりグッチの経営に携わるようになりました。
ルドルフォは俳優時代の人脈を活かし、大物女優たちにグッチ(GUCCI)商品を持たせ、プロモーション面で貢献することで、ブランドとしての名声を高めていきます。
父であるグッチオは、そんな2人の息子を後継者として競争させました。
逝去すると最終的には経営権を握るグッチ(GUCCI)の株を半分づつ二人に渡るかたちになりました。
その後、実質的な経営の中心は三男アルドが握り、徹底したブランドイメージの構築で、ブランド「グッチ(GUCCI)」の黄金期を迎えます。
しかし、このころから次第に二人の兄弟の経営権をめぐる確執や対立が強まっていき、のちに一族の衰退をたどる歴史の始まりになります。
グッチ一族の崩壊
兄アルドから、経営の実権を奪う日を夢見たルドルフォでしたが、道半ばで亡くなりその保有していた株は、一人息子であるマウリツィオに引き継がれることになります。
マウリツィオにはパトリツィアというグッチ(GUCCI)の社長夫人を狙う、大変野心の強い妻がいました。
こののち彼女がグッチ家の内紛の引き金になっていきます。
また、弟のルドルフォ死後、名実ともにグッチ(GUCCI)トップに君臨していたアルドにも、ジョルジオ、パオロ、ロベルトという三人の息子がいました。
特にグッチ一族の異端児と呼ばれた次男のパオロは、デザイナーとしての才能は、他の兄弟に比べ抜きん出ていましたが、「万人にグッチを」という考えのもと低価格路線のブランド「パオロ・グッチ」を独断で立ち上げます。
このことが発端となり、父アルドの逆鱗に触れグッチ(GUCCI)から追放されてしまいます。
そもそも、アルドは自身が保有する株50%のうちの10%を3等分し、3人の息子たちに渡すことで、経営に参画させ意欲を引き出そうと考えていました。
しかし、経営方針の違いから息子パオロを追放する結果になり、逆に追放されたことがきっかけで、パオロは父親に対して強い憎しみを抱くことになりました。
野心を抱くマウリツィオの妻パトリツィアと父親であるアルドに憎しみを抱くパオロ。
創業者グッチオの孫世代になり、一族崩壊の歯車は一気に加速します。
虎視眈々とグッチの権力を狙うパトリツィアは、アルドとパオロの親子喧嘩を見逃しませんでした。
夫マウリツィオとパオロを共謀させ、二人の保有株を合計することで過半数を制し、アルドをグッチのトップ座から追い落としました。
アルドは社長を解任され、次期社長にマウリツィオが就任します。
また、パトリツィアも憧れの社長夫人としての地位を手に入れました。
一方で、パトリツィアの計略にはまり地位を失ったアルドは、このまま黙っていられませんでした。
新社長であるマウリツィオに対し、父親であるルドルフォから保有していた株を引き継ぐ際に、父親のサインを偽造させて株を相続したと告訴します。
これにより、マウリツィオは裁判の判決が降りるまで、社長の座から降りることになりました。
また、告訴した側のアルド自身も、社長時代の脱税容疑でマウリツィオや息子パオロに告訴され、実刑判決として多額の罰金と禁固刑で、当時80代のアルドは収監されていまいます。
失われたブランド「グッチ(GUCCI)」とお家騒動の結末
その後、マウリツィオがグッチ会長職に復権を果たしますが、アルドの長男ジョルジオと三男ロベルトが、マウリツィオの経営に不信を抱き、アラブ資本の資産投資会社「インベストコープ」へ自身のグッチ保有株を売却してしまいます。
次いで、次男パオロも売却していまい、グッチ株の過半数が一族の手から離れてしまいました。
この一連のお家騒動によりブランドの評判はガタ落ちになり、会長のマウリツィオも経営に自信を失い、グッチの株をすべて手放す決断をしました。
また、その最中の1990年にアルドが失意の中、亡くなります。
こうして、グッチ一族は、ブランド「グッチ(GUCCI)」と関わりがなくなりました。
そして1995年に世界に衝撃的なニュースが流れました。
「マウリツィオ・グッチ暗殺」
マウリツィオは朝オフィスに入るところを、多くの目撃者のいる中で射殺されました。
事件は藪の中と思われましたが、その数年後実行犯を雇った黒幕が捕まります。妻パトリツィア。
晩年、マウリツィオは妻が自身への愛よりも、財産や名声・権力が目当てだったことを知り別居し、他の女性と暮らすようになります。
グッチの経営から退いたとはいえ、彼には莫大な財産がありました。
その財産が他人にいかないようにするためか、野望が崩れてしまったためか、パトリツィアは、マフィアを雇い、マウリツィオの暗殺を依頼しました。
事件後、マフィアとの間で「暗殺の報酬額」によるトラブルで、パトリツィアによる計画が発覚したそうです。
彼女は懲役29年の有罪判決が下り、刑務所へ収監されました。
押収されたパトリツィアの日記には「金で買えない犯罪は無い」と書かれていたといいます。
この一連の「グッチ一族のお家騒動」は映画化の噂が絶えません。
世界的に見ても、いかにセンセーショナルな出来事であったかが伺えます。