バレンシアガ(BALENCIAGA)の歴史

2020/03/12

日本でも人気のラグジュアリーブランド「バレンシアガ(BALENCIAGA)」。フランスのブランドとして知られていますが、実はスペインにて創業のオートクチュールが始まりになります。今回はそんな「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の歴史を辿ってみたいと思います。

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クチュール界の建築家「クリストバル・バレンシアガ」

今や世界的な知名度を誇り、バッグや財布をはじめ、ウェア、シューズなど日本でも人気の高いラインナップを展開するフランスのラグジュアリーブランド「バレンシアガ(BALENCIAGA)」。その創業は、 1900年代初頭にスペインにてオートクチュール(オーダメードの高級服飾を扱う店および製品)のメゾンを構えたのが始まりになります。

創業者クリストバル・バレンシアガは、1895年にフランスに近い現在のスペイン・バスク州ギプスコア県ゲタリアに生まれました。彼の母親は服飾などの仕立てや裁縫を商いとして営み、幼い頃からクリストバルは、そんな母親の仕事を見て育ちました。
青年期に入ると、独学で覚えた服飾の仕立て技術が評判となり、地元貴族の夫人の目に止まり彼の顧客になります。そしてその貴族夫人は、彼の技術をさらに磨かせるため、マドリードの仕立屋に修行を積ませます。

修行を終えたクリストバルは、バスク州ギプスコア県の県都サン・セバスチャンにオートクチュールハウスを開店し、1919年にはパリのオートクチュール・コレクションに初めて参加します。その評判はスペイン国内で徐々に広まり、2店舗目をマドリード、3店舗目をバルセロナにオープンさせるまでに漕ぎ着けました。
さらに、スペイン王室や貴族たちがクリストバルの顧客となり順風満帆のスタートでしたが、1936年に勃発したスペイン内戦の影響により営業が困難となり店を閉じることになります。

翌年の1937年、新天地としてフランス・パリのジョルジュ・サンク大通り10番地にメゾンを構え、ここが今に続くブランド「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の前身となります。
後の1946年に発表された、有名な最初の香水コレクション「ル・ディス(Le Dix)」は、フランス語で「10」を意味し、このメゾンの住所から名付けられたと言われています。
そしてここから、クリストバル・バレンシアガの時代が到来します。
同年1937年には、パリのプレタポルテ(高級既製服)コレクションに初参加し、これを転機に精力的に活動を始めます。
1930年代のファッション界に革命を起こし世界中の女性を魅了した、クリスチャン・ ディオールによる全く新しいデザインスタイル「ニュールック」革命。それまで、女性の服はコルセットを代表するように、体のラインをはっきりと見せるものが多く、体型を気にせず着れる服飾はセンセーショナルな出来事でした。クリストバルは、その「ニュールック」の先駆けとも言われるワイドスカートのスーツを発表し、ディオールと並ぶほどの人気を博します。

1950年代に入ると、バレル(樽)型のシルエットでウエストラインを持たない「バレル・ルック」、サック(袋)をモチーフにした寸胴形のシンプルなシルエットを生み出す「サック・ドレス」、全体が筒型のようなストレートのシルエット「チュニックライン」など数々のデザインスタイルを考案し、その後のファッション界に大きな功績を残します。

当時のモード界では、そんな彼を「クチュール界の建築家」「クチュリエ中のクチュリエ」「クチュール界のピカソ」「デザイナーの王様」などと称し、この時代を代表するデザイナーであったココ・シャネルは、「デザインから仕上げまで、全ての工程を一人で出来る本物のクチュリエは彼だけだ」と評しました。また、クリスチャン・ディオールからも「われわれ全員の師」と言わしめるほど、ファッション界に絶大な影響を与えます。

オードリー・ヘプバーンなどを顧客に持ち、彼女の映画の衣装デザインも担当したことで有名なユベール・ド・ジバンシーは、一時クリストバルのメゾンで働いていたことがあり、そのほかにもエマニュエル・ウンガロといった後に活躍する弟子たちを多く輩出し、名実ともに世界中から巨匠として認められていきます。

巨匠の死と、若き才能の誕生

1960年代のクリストバル・バレンシアガは、もはや「オートクチュールの巨匠」としての地位は不動のものとなりますが、1968年にフランスで起こった学生や労働者などによる「自由・平等・性の解放」を掲げた社会運動「五月危機(五月革命)」により、世の中の風潮として贅沢が敬遠され始めると、オートクチュールのメゾンを閉めて引退します。このことは当時大きな話題になりましたが、彼にはクチュリエとしての誇りとこだわり人一倍強く、プレタポルテ(既製服)でその後も成功を収めるディオールとは、経営という視点での考えが違いました。
後に彼は「プレタポルテを始めるには年をとりすぎた」という言葉を残しています。
その後、祖国スペインに戻り余生を過ごし、1972年に77歳の生涯を閉じます。

一方、ブランドとしての「バレンシアガ(BALENCIAGA)」は、クリストバルの甥に承継され、しばらくは香水のみを販売し、長い低迷期が続くことになります。

1990年代に入るとプレタポルテのデザイナーとして、 ジョセフュス・メルキオール・ティミスターが就任し、プレタポルテに挑戦するもうまく行きませんでした。
そして1995年、当時の若手有望株であったニコラ・ジェスキエールをデザイナーに迎え入れ、復活への狼煙をあげるのです。
ニコラの才能は、後にマーク・ジェイコブスの後継者として、ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton )のアーティスティックディレクター就任することが全てを物語っています。
1997年には、プレタポルテ・アクセサリー・コレクション部門のクリエイティブ ディレクターに就任することで、ウェア・バッグ・アクセサリーなどを世界的に展開する総合ブランドへと変貌を遂げます。
2000年代に突入すると、ニコラの才能は花開き数々の賞を受賞し、今やバレンシアガ(BALENCIAGA)の代名詞となったエディターズバッグ「シティ」もこの時期に発表しています。
経営面では、事業拡大の資金調達のためとも言われグッチグループの傘下に入り、その母体のグッチ(GUCCI)が現在のケリング(KERING)グループの前身であるPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)グループに買収されたことで、一緒にグループ傘下に入り現在に至っています。
バレンシアガ(BALENCIAGA)にとって、ニコラ・ジェスキエールは救世主であり、世間からは「クリストバルの生まれ変わり」として高い評価を受けました。
そして、これこそが現在の人気に繋がる「新生バレンシアガ」が誕生となったのです。

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新生バレンシアガの挑戦

バレンシアガ(BALENCIAGA)は見事復活を遂げ、「新生バレンシアガ」として順調にラグジュアリーブランドとしての階段を登っていきますが、2012年ニコラ・ジェスキエールが経営側との不和によりバレンシアガを去ります。
後任として、2013年日本でもユニクロなどとのコラボで有名なアレキサンダー・ワンが就任します。
そして2015年、ヴェトモン(VETEMENTS)のヘッドデザイナーであったデムナ・ヴァザリアをアーティスティックディレクターに迎え、現在に至ります(2020年2月時点)。

デムナのデザインの特徴は、ラグジュアリーでありながらストリートテイストのあるテーマで一貫しており、ブランドの新たな顧客層の獲得にも貢献しています。
そんな彼の代表する作品として、実際に存在する電話番号がプリントされた「電話番号シャツ」、今やバレンシアガ(BALENCIAGA)の定番となったスニーカーシリーズ「トリプルエス(Triple S)」「スピードトレーナー」「トラック(TRACK)」などが挙げられます。
また、ブランド名の「BALENCIAGA」のロゴが大きくプリントされたパーカーやスウェットなども人気があります。

一方で、既存のコレクションにも力を入れています。定番ラインのエディターズバッグ「シティ」には、カラーバリエーションやサイズ(ジャイアント12、ミディアム、ミニ、スモール等)を増やし、シティのディテールを取り入れた財布「クラシックマニー」、日本でも人気のミニ財布や三つ折り財布で、その流行の火付け役と言われる「ペーパー ミニ ウォレット」や「ヴィル ミニ ウォレット」など、レディース・メンズを問わず、カジュアルからビジネス・フォーマルに至るまで幅広く展開しています。

今や世界各国に旗艦店を出店し、2011年には創業者クリストバル・バレンシアガのスペインの生家の隣に、その功績を讃えバレンシアガミュージアムを開設するなど、過去の危機を幾度も乗り越え生まれ変わった新生バレンシアガ(BALENCIAGA)は挑戦続けています。

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Writed by 上田勝太

上田 勝太

ゴールドプラザ 主任鑑定士
1985年生まれ 鑑定士歴15年
月次の最高買取金額10億円 各ニュースに出演

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