イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)の歴史

2020/04/13

日本が世界に誇るファッションブランド「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」。その創業者である三宅一生は、戦後の日本を代表するファションデザイナーとして世界中から知られており、Apple創業者スティーブ・ジョブズが着ていた有名な黒のタートルネックシャツも同ブランドのものを愛用していたと言われています。今回はそんなイッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)の歴史について触れたいと思います。
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デザイナーと「一枚の布」

メリル・ストリープ、スティーブ・ジョブズ、レディー・ガガ、ビートたけしと言った世界的な著名人たちからも愛され、メンズ・ウィメンズ、ウェアや時計、香水まで幅広くラインを展開する「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」。代表作でありコンパクトに収納できて着る人の体型を選ばない世界服「プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)」や、一世を風靡したバッグ「バオ バオ (BAO BAO)」、芸能人にも愛用者が多い香水「ロードゥ イッセイ フローラル」などは、今も人気が衰えません。
また、既成概念とらわれず自由な発想で人を育てながら個々のプロジェクト(デザイン)に取り組む姿勢から、数多くの著名なデザイナーを輩出したことでも知られています。

創業者である三宅一生は、1938年(昭和13年)に広島県広島市に生まれました。7歳の時にアメリカ軍による広島への原爆投下により被曝し、母親は3年も経たないうちに亡くなったそうです。そんな三宅少年にとって、広島平和記念公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋にある日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチが手掛けたオブジェは、デザインが人を励ます力を秘めていることを初めて教えてくれたモノであり、その後の人生に影響を与えてくれました。自身の被曝経験もあり「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を創造することを将来の目標としたそうです。

地元広島の高校を卒業後上京し、多摩美術大学図案科に入学すると、新人デザイナーの登竜門と言われ、コシノジュンコ・高田賢三・山本寛斎・山本耀司といった後に世界で活躍する著名なデザイナーを輩出したファッションコンテスト「装苑賞」にて、在学中に2年連続で現在の佳作に位置づけられる賞を受賞します。
また、1960年に日本にて世界27カ国・二百数十名のデザイナーや建築家を集めて開催された「世界デザイン会議」において、「衣服デザインの分野が含まれていないのはなぜか」と事務局宛に意見したことはエピソードとして有名です。
そして、東京オリンピックのポスターなどを手掛けたアートディレクター村越襄から、東洋レーヨン(現・東レ)の1963年版カレンダー用の衣装制作のオファーを受けたことが、デザイナーとして自身初の仕事となります。

大学卒業後の1963年には、第一回コレクション「布と石の詩」を発表しますがうまく軌道に乗れず、1965年フランス・パリに渡り、数多くの著名なデザイナーを輩出した名門学校でファッションやデザインを学び、フランスのラグジュアリーブランド「ギ ラロッシュ(Guy Laroche)」や「ジバンシィ(Givenchy)」といったメゾンで修行を積みます。
そんななか三宅一生は、1968年にフランスで起こった学生や労働者などによる「自由・平等・性の解放」を掲げた社会運動「五月危機(五月革命)」を体験し、これを転機に「かぎられた人だけでなく、より多くの人のために服を作りたい」と思うようになり、1969年アメリカ・ニューヨークに渡り既製服の勉強を始めます。
時はまさに、パリ・モード界においてオートクチュール(オーダメードの高級服飾を扱う店および製品)から、プレタポルテ(高級既製服)の転換期でもありました。
それは三宅一生にとっても転換期であり、身体に合わせ多くの生地を使って作る服よりも、生地を可能な限り捨てずに身体とそれをおおう「一枚の布」ように、またそこに生まれる「ゆとり」や「間」の関係を追求し、西洋・東洋の枠を外した多くの人が着られる服を目指すことになります。
服の素材となる布の1本の糸から産地を訪ね研究し、多くの人々の協力を得て伝統技法や最先端の合繊技術を学び、オリジナルの素材を開発します。
そして、今日にまで至るイッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)のブランド理念「一枚の布」が確立されるのです。

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「世界服」の創造と、革新的コンセプトのバッグ「バオ バオ (BAO BAO)」

1970年、アジア初の万国博覧会が大阪で開催(通称「大阪万博」)を前に、三宅一生は日本に帰国し、東京に「三宅デザイン事務所」を設立します。これが、ブランド「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」のスタートとなります。
大阪万博では、参加する企業や団体のコンパニオンユニフォームをデザインし、翌年の1971年、ニューヨークにおいて自身海外初のコレクションを発表。また、同年11月には「三宅デザイン事務所」の製造・卸・販売会社として株式会社 イッセイ ミヤケ インターナショナル(現:株式会社 イッセイ ミヤケ)を設立します。
1973年には、パリ・コレクションに初参加を果たし、「1枚の布」というブランドコンセプトのもと服作りの概念を覆すデザインで、西洋でも東洋でもない衣服「世界服」を創造し、世界中で大きな話題を呼びました。
後の1993年に発売される代表作「プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)」は、この世界服が進化を遂げたものになります。
ちなみに、このプリーツ・プリーズは、行動する女性をコンセプトに、コンパクトに収納でき、軽くて動きやすく着心地が抜群で、着る人の体型を選ばないようデザインされ、世界中で400万着以上売れたと言われています。

また、プリーツ・プリーズのバックのラインナップから生まれたのが、今も世界中に多くのファンを持つバッグ「バオ バオ (BAO BAO)」になります。
2000年に「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」で発表され、2010年よりバッグブランド「BAO BAO ISSEY MIYAKE」として展開しました。三角形のピースをいくつも組み合わせ構成される幾何学的なインパクトの強いデザインと、無限に形を作り出すことができる革新的なコンセプトにより誕生した「バオ バオ (BAO BAO)」は、最先端の工学技術も取り入れ機能面と実用性にも優れたバッグになっています。
そして、入れるものによって自由自在に形が変わったり、光の当たり具合で異なる表情を見せ、偶然による美しさや楽しさを持つ人に与えるこのバッグの人気は今も衰えず、一時は正規店でも品薄状態が続いていたそうです。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)のミュージアムショップで取り扱われたり、世界各国のおしゃれに敏感なセレブたちにも愛されるなど、もはや「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」を代表する定番アイテムとして知られています。

そんなロングセラーの「バオ バオ (BAO BAO)」ですが、定番ラインとして、原点のシリーズ「ルーセント(LUCENT)」、ルーセントよりピースが小さい「プリズム(PRISM)」、鏡面加工を施したプラチナのような輝きを放つ「プラチナ(PLATINUM)」、色の「黒」と玄人(くろうと)の「玄」をコンセプトにした「クロ(KURO)」などが人気です。

現在もシーズンごとに、新コンセプトや新色・新素材が発表されており、こちらも目が離せません。

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世界の三宅一生

ブランド「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」は世界的な成功を納めました。創業者デザイナーである三宅一生は、1993年にメンズライン、1999年にはウィメンズラインを後任に引き継ぎ、ブランドのデザインの第一線から退きます。
そして彼は、次の人生のチャレンジとして次世代人材の育成など社会貢献事業に取り組み始めます。2004年に財団法人三宅一生デザイン文化財団(2011年より公益財団法人)を設立し、デザインの国際文化交流、若手のデザイナーやアーティストなどの人材育成に尽力します。2007年には、東京ミッドタウン内のデザイン専門施設「21_21 DESIGN SIGHT」を設立し、グラフィックデザイナーの佐藤卓、プロダクトデザイナーの深澤直人とともに施設のディレクターを務めます。

もともと、三宅の人材育成には定評があり、「三宅デザイン事務所」からは数々の有名デザイナーを輩出しました。
ブランド「ズッカ(ZUCCa)」を設立した小野塚秋良、ブランド「TSUMORICHISATO(ツモリチサト)」を設立した津森千里、三宅の後継者でもありその後ユニクロで活躍した滝沢直己、CAMPERや良品計画で活躍の藤原大、「バオ バオ (BAO BAO)」の立役者でもあり自身のブランド「ゴジュウニ バイ ヒカルマツムラ」を設立した松村光など、そのほかにも多く人材を輩出しています。

また、数々の輝かしい受賞・受勲歴がその偉大さをものがたり、1993年フランスのレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ、イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アート名誉博士号、2005年第17回高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)、2006年第22回京都賞(思想・芸術部門)、2010年広島市名誉市民、同年に皇居にて文化勲章、2016年フランスのレジオン・ドヌール勲章コマンドールなど国内外で受賞・受勲しています。
なかでも、1999年アメリカのタイム誌が発表した「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に、選出されたことは大きな話題となりました。その20人のうち日本人は6人が選出され、昭和天皇、ソニー創業者の盛田昭夫、映画監督の黒澤明、トヨタ自動車会長の豊田英二、カラオケ発明者の井上大佑といった錚々たる人物たちとともに、ファッションデザイナー三宅一生として選ばれました。

最後に、世界の三宅一生は2009年に再び世間の注目を浴びることになります。
当時のアメリカ大統領バラク・オバマが、チェコ共和国の首都プラハにて「核兵器のない世界」を訴えたスピーチに、三宅が感銘を受けニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、大統領に広島を訪れるよう呼びかけたことが大きな話題になりました。
彼は、それまで「原爆を経験したデザイナー」というレッテルを貼られることを嫌い、これまで広島の原爆のことを多く語ってこなかったそうです。ただ、時を重ねるごとに平和への強い思いが大きくなり、大統領に、そして世界に訴えたのだと思います。
そして、7年後の2016年5月27日に現職のアメリカ大統領として初の広島訪問が実現し、大統領はあらためて「核兵器のない世界」に向けた所感を述べました。

イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)のものづくりの精神もまた、人種の壁や思想を超えた次元で生まれてきました。
人種の壁を超えて平和を目指したオバマ大統領への広島訪問時の土産品には、三宅デザイン事務所がデザインしたモノが選ばれたそうです。

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