モードの帝王「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」

2020/03/09

イブ・サンローラン(Yves Saint-Laurent)買取ならゴールドプラザ
20世紀のファッション界において、ココ・シャネルやクリスチャン・ディオールらとともにフランスを代表する、世界で最も有名なデザイナーの一人として知られる「イヴ・サンローラン」。今回はデザイナーとして、ブランドとしての両方から歴史や経歴を辿ってみたいと思います。

フランス・モード界の天才デザイナー

「YSL」のロゴや、映画にもなるほど世界的に高い知名度を誇るデザイナーであり、その名を冠したラグジュアリーブランド「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」。
トップデザイナーとして約40年以上の長きにわたりファッション界の第一線で活躍し、数々の画期的なスタイルを生み出したことから「モードの帝王」と称えられました。

そんな、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は、1936年にフランス領のアルジェリアで中流階級の家に生まれます。 17歳になるとパリのファッションデザイン学校に入学し、その非凡な才能を発揮します。IWS(国際羊毛事務局)主催のデザインコンクールにて、カクテルドレスを発表しドレス部門で最優秀賞を受賞します。ちなみに、このカクテルドレスを縫製したのが、後にラグジュアリーブランド「ジバンシー(GIVENCHY)」を立ち上げるユベール・ド・ジバンシーであり、この時の毛皮部門で最優秀賞を受賞したのが、後にシャネル(CHANEL)のデザイナーとして活躍するカール・ラガーフェルドでした。
そして彼の才能は、このコンクールの審査員であったファッション誌「VOGUE」のディレクターの目に止まり、当時モード界の巨匠として名を馳せていたクリスチャン・ディオールに紹介され、二人は運命的な出会いを果たします。

ディオールは、若きサンローランに自分と共通したデザインセンスを持ち合わせていることを見抜き、強い感銘を受け1954年に後継者の一人としてメゾンに迎えます。
この時のサンローランのポートフォリオが、ディオール自身が本人以上にディオールらしいことに感動したからと言われています。
1957年にクリスチャン・ディオールが急逝すると、21歳という若さでカリスマの後継としてメゾンの主任デザイナーに就任します。
翌年の1958年には、イヴ・サンローランによるディオール最初のコレクションで、フランス語で台形の意味する「トラペーズ」という言葉どおり裾に向かって広がるシルエットの「トラペーズライン」が発表され、このコレクションが話題になり、当時の新聞には「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続く」と称讃されます。
さらにこれをきっかけに、ファッション界のオスカーとも言われる アメリカの「ニーマン・マーカス賞」を受賞します。

後に「モードの帝王」と呼ばれる天才デザイナー「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」がここに生まれたのです。

ブランド「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」の誕生

デザイナーとして順調に階段を登り始めたサンローランでしたが、生誕の地フランス領のアルジェリアで、フランスからの独立戦争が勃発し、1960年フランス軍として徴兵されてしまいます。
そして、この従軍体験によるストレスで精神疾患を患い、ディオールを去り療養に専念します。

病状が回復した1962年、アメリカの実業家マック・ロビンソンの支援を受け、後にサンローラン生涯の公私におけるパートナーとなるピエール・ベルジェとともに、自身の名を冠したオートクチュール(オーダメードの高級服飾を扱う店および製品)メゾン「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」をパリにて創業します。
1966年には、イヴ・サンローランのプレタポルテ(高級既製服)ラインである「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」を設立し、ここに今に至るブランド「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」の原型が誕生したのです。
ちなみに「リヴ・ゴーシュ」とは、フランス語で「左岸」を意味し、パリを流れるセーヌ川の左岸に店舗を構えたことが名前の由来だそうです。
そしてここから、イヴ・サンローランとピエール・ベルジェの二人三脚による、世界的ラグジュアリーブランドへの躍進が始まるのです。

オランダの抽象画家ピエト・モンドリアンの作品からヒントを得た、白のワンピースに赤・青・黄のパズルのような柄を配した「モンドリアンルック」、男性用のタキシードを女性用にアレンジした「スモーキング」、肌が透けて見える素材を使った「シースルー」、男性が狩猟や探検などの際に着る服を女性用にアレンジした「サファリルック」、女性のパンツスタイルに革命を起こしたとも言われる裾の広がったパンツデザインの代名詞である「パンタロン」など、現在ではもはや見慣れた素材や定番デザインの原型として一般的に知られていますが、これらはサンローランが初めて採用したものばかりで、ファッションの潮流を変えたとも言われています。

また、 1989年にはファッションブランドとして初のパリ証券取引所に株式を公開し、デザイナーとしては、 1993年にその年のパリにおいて最も活躍したデザイナーに贈られるデ・ドール賞を受賞、フランスの最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章においては複数受賞しています。

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サンローランを支えた二人の立役者

ブランド「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」は、1999年に現在のケリング(KERING)グループの前身であるPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)グループの傘下に入り、デザイナー「イヴ・サンローラン (Yves Saint Laurent)」は、2002年にパリでのコレクション発表を最後に引退し、それと同時にオートクチュール部門のメゾンを閉め、自身は北アフリカのモロッコ・マラケシュで余生の大半を過ごし、2008年に享年71歳でこの世を去ります。
告別式にはフランス大統領をはじめ錚々たる面々が参列し、改めて彼が残したファッション界への多大なる功績の数々が、その偉大さを物語っています。

そんなブランドとして今も続く「イヴ・サンローラン (YVES SAINT LAURENT)」が成功した背景には、二人の人物の存在が欠かせません。

一人は、共同創業者であり、公私におけるパートナーであったピエール・ベルジェです。ブランドの戦略面を担当し、サンローラン曰く「アーティストのようにビジネスを経営する」と言わしめた人物で、彼がいなければブランドのビジネス面での成功はなかったと言われています。メゾン創業時の資金調達も彼による働きによるものでした。
晩年、イヴ・サンローランの偉業を後世に伝えるための活動に情熱を傾け、「イヴ・サンローラン美術館」開設を計画しますが、オープン間近の2017年9月に亡くなります。

そしてもう一人が、鬼才エディ・スリマンです。
サンローランが健在だった1997年に、彼はメンズライン「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ オム」のアーティスティック・ディレクターに就任し、翌年にはジーンズラインも担当します。
2000年に、ディオール・オムのディレクターとしてブランドを離れますが、創業デザイナーであるイヴ・サンローランが亡くなり、かつての勢いがないまま存続していたプレタポルテ・アパレル部門「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」を復活させるため再び舞い戻り、2012年全コレクションを統括するクリエイティブ・ディレクターに就任すると、ブランドイメージを一新させるため、ブランド名を「サンローラン (SAINT LAURENT)/サンローラン・パリ(SAINT LAURENT PARIS)」に改名します。ただし、ブランドのアイコンでもある「YSL」のロゴは、これまでの伝統と功績に敬意を払う意味も込め継承されています。
彼の特徴でもあるロックやストリートテイストのデザインは見事にブランドとマッチし、新たなファン層の獲得に成功し、事業拡大に導きます。
2016年に退任し、デザイナーとしてはもちろんのことフォトグラファーなどの新たな可能性の場を広げ、さらなる活躍を遂げています。

現在(2020年3月時点)、組織としての「イヴ・サンローラン」は、前述のプレタポルテ・アパレル部門である「サンローラン (SAINT LAURENT)/サンローラン・パリ(SAINT LAURENT PARIS)」と、化粧品部門の「イヴ・サンローラン ボーテ(YVES SAINT LAURENT BEAUTE / YSL Beaute)」が存続し、別会社ではあるものの同じケリング(KERING)グループに名を連ねています。

最後に、度々映画の題材になるほどその生き様は波乱万丈であった帝王「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」。
2002年の引退時のインタビューで、彼はこう語っています。
「 私は旅に出たい。そして、白分がドレスを作りたいか確かめるためにもう一度戻ってきたい。」と。
彼のレガシーが息づくブランド「イヴ・サンローラン」のこれからの旅も、きっと天国から見守っていることに違いありません。

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