第三回 ルイ・ヴィトン 高価買取の法則

2016/06/05


ルイ・ヴィトン高価買取の法則、第三回をお送りいたします。
前回は、中古品と新品商品の値段の付け方の違い、中古品の売値は、ブランドの市場価値と人気に大きく左右されるというところまでお伝えいたしました。

今回は、『ルイ・ヴィトンの人気』について、ルイ・ヴィトンがどのように日本に定着したのかを歴史を交えてご説明いたします。

ルイ・ヴィトンと日本の出会い

ルイ・ヴィトンと日本人の最初の出会いは、1867年にパリで開催された、万国博覧会だと言われています。
日本が初めて参加した万博もこの年でした。
その16年後、ある一人の日本人がルイ・ヴィトンのパリ本店へ訪れます。
その日本人とは、土佐藩士・後藤象二郎です。

幕末に活躍した人物であり、大政奉還や維新政府樹立に大きな貢献をした人物で、福山雅治主演でドラマ化された『龍馬伝』にも、重要人物の一人として登場します。
ルイ・ヴィトンの本店には、古くからの顧客名簿が現存しており、その中に名前が記されているそうです。

ルイ・ヴィトンと銀幕のスター

それから、時は流れ約100年後の1960年代。
戦後の日本は経済成長の真っ只中にありました。
海外の映画・ファッションなども日本に定着しつつあった時です。

この時代、ファッションリーダーとして絶大な人気があったのが、かの『オードリー・ヘプバーン』です。
1957年に公開された映画『昼下がりの情事』の中には、モノグラム柄の大型トランクが映し出される印象的なシーンがあります。

また、オードリー自身もルイ・ヴィトンの愛用者であり、定番商品として現在でも人気の高いスピーディの25cmのタイプは、元々は彼女がルイ・ヴィトンにオーダーし作られたものです。

ルイ・ヴィトンの定着と日本進出・そして世界再進出へ

1970年代は日本のファッションモデル・ファッションデザイナーがパリで大活躍しており、ファッション誌はこぞってその活躍ぶりを取り上げていました。
『オードリー・ヘプバーンの人気』と『日本人モデル・デザイナーの活躍』は、それまで日本では、ごく一部の富裕層にしか認知されていなかったルイ・ヴィトンの名を一気に定着させました。
しかし、輸入品=高級品というイメージがまだ強かったその当時、日本国内に輸入されたルイ・ヴィトン製品は、定価の2~3倍の価格で販売されていました。
高い値段でも売れるため、それに味をしめた悪質な並行輸入業者が横行していたのです。
そこに、『空前の海外旅行ブーム』が重なります。
本店に直接行けば、日本の価格の3/1で買えると知った日本人が連日行列を作るまでになりました。
それらの状況に対抗するため、ルイ・ヴィトン社は『ルイ・ヴィトン・ジャパン』の設立を決定します。
そして1978年、東京に4店舗と大阪に2店舗の計6店舗が日本に誕生することとなりました。

実はその当時、第二次世界大戦の影響もあり、ルイ・ヴィトンの直営店舗はパリとニースの2店舗しかありませんでした。
日本に誕生したルイ・ヴィトンの直営店舗は、ルイ・ヴィトンの世界再進出第1号でもあったのです。
日本への出店をきっかけに、ルイ・ヴィトンは再度世界各国へ進出していくこととなります。

こうして日本人に幅広く定着したルイ・ヴィトンですが、一過性のブームで終わることなく、現在でも昔と変わらない人気・市場価値を保っています。

次回は、現在まで続く『普遍的な人気』について詳しくご説明したいと思います。