パンクの女王-ヴィヴィアン・ウエストウッド

2017/04/15


その生き方、風貌にはどこか浮世離れした雰囲気を感じさせるヴィヴィアン・ウエストウッド。
かつて無かったパンクファッションを生み出し、英国に新たな潮流を生み出しました。
人々は、彼女を「パンクの女王」と呼びます。

その破天荒ぶりは、学生の頃から健在でした。

1941年、ヴィヴィアンはイングランド中部にあるダービシャー地方の街グロソップにて生まれます。
まだ幼い10代の頃、ヴィヴィアンはクリスチャン・ディオールが発信したニュールックに憧れ、学校の制服を自分でアレンジしてしまったそうです。
そんな破天荒な学生生活を終え、卒業すると家族と共にロンドンへと移ります。
彼女はロンドンで働きながら、夢だった美術教師を目指します。
またこの時には結婚し、翌年、子供を出産しました。
しかし、幸せな時間も束の間、彼女が24歳の頃に離婚。僅か3年間の結婚生活でした。

パンクと共に彼女のアバンギャルドが、英国に響き渡る。

1965年、ヴィヴィアンがその男と出会った場所は彼女の兄の家でした。
男の名はマルコム・マクラーレン。
実は彼、当時アメリカで発祥していたパンクを英国の若者たちに流行らせた人物でした。
マルコムが持つ音楽とファッション性に影響を受けたヴィヴィアンは1971年、マルコムがロンドンに出店したブティックでデザイナーとして働き始めます。
この頃はヒッピーがトレンドでしたが、ヴィヴィアン、マルコムはこれにインスピレーションを感じませんでした。
そこで二人は当時には無かった引き裂かれたジーンズや刺激的な絵がプリントされたTシャツなどを販売することにしました。

同時にマルコムはパンクの力で不況に苦しむ英国の若者たちに元気と活力を与えようと、自分の店で働く若い従業員たちを集めてバンドを結成。
マルコムは自身がアメリカでロックバンドのマネージャーを務めた経験を駆使し彼らに教えていきます。
衣装はヴィヴィアンがパンクに相応しい過激なデザインを手掛けました。
刺激的で、情熱的で、力強いパンクロックは英国の若者たちに大ヒット。

また、彼らが着ていた衣装はヴィヴィアンとマルコムが経営しているお店の宣伝効果となりました。
彼女の作った服から感じるそのアバンギャルドさがたちまち人気となり、ヴィヴィアンが「パンクの女王」と呼ばれた瞬間でした。

彼女にとって、年齢など数でしかないのだ。

1984年、パンクファッションを確立させたヴィヴィアンは長年共に過ごしてきたマルコムから離れ独立し、東京で行われる「The Best of Five」に参加。
そこで彼女が発表したのはアバンギャルドと英国伝統が融合されたデザイン。
英国18世紀のアートに惹かれた彼女は自身が持つファッション性に取り入れることで独自のデザインが生まれました。
これをきっかけに彼女は、1987年のコレクション会ではコルセットを服の上から付ける、または洋服として着るスタイルを発表します。
中世の頃から女性の行動を制限するようなイメージだったコルセットを一転してセクシャリティが表現されたと大きく評価されました。

その後はラブジャケットをはじめとし、アーマーリングや非常に高さのあるエレベイテッドパンプス、ジャイアントオーブペンダントなどヴィヴィアンの独創的で力強いデザインが生まれました。

御年75歳を迎える彼女ですが、そのアバンギャルドさは若い頃から変わることはありません。
2015年にはイギリスのキャメロン首相の邸宅に、なんとヴィヴィアンが戦車で乗り付けたこともありました。
この騒動は政府がヨークシャー州内においてシェールガス採掘を許可したことに対し、民主主義に則っていないと主張したことが始まりでした。
戦車に乗る姿が不思議と様になっております。

この他にも授与式にドレスを着た際、下着は身に付けない、彼女自身による年齢関係無しのヌード写真などなど。
常人には到底理解出来ない行動ぶりです。
しかしながら、“ヴィヴィアンの常に自分の生き方を貫いていく”スタイルに人々は心を動かされ、彼女の強さを自分にも与えて欲しいとヴィヴィアン・ウエストウッドを身に付けている人もきっといるのではないでしょうか。

今日もまた、彼女の型破りな行動がどこかで披露されているのかもしれない。

ヴィヴィアン・ウエストウッドでした。

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