日本を愛する男が生み出した英国ブランド ポール・スミス(Paul Smith)
2020/06/05日本でも人気のファッションブランド ポール・スミス(Paul Smith)。イギリスの伝統的なデザインの中にカジュアルさを併せ持つ独自のセンスは、日本のみならず、世界のファンを魅了し続けています。
今回はそんなポール・スミス(Paul Smith)の歴史を辿っていこうと思います。
挫折から始まる仲介業
創業者であるポール・スミス(Paul Smith)は1946年(昭和21年)7月5日、イギリスはノッティンガムで生まれます。幼少期から独立心の強い彼は、得意とする自転車競技で生計を立てるべく、僅か15歳の時に学校を自主退学、レーサーを志します。しかし、不運にも事故に遭遇。彼は重傷を負ってしまいます。およそ半年間の入院を余儀なくされ、レーサーへの道を絶たれてしまったのです。
退院後、進路が断たれたポール・スミス(Paul Smith)でしたが、思いもよらぬ出会いがありました。それが、アートスクールの学生です。彼らと親しくなったポール・スミスは、彼らの仲介役を担うようになっていきました。それから次第にアートの世界の魅力にひかれ、この仲介業を自身の仕事にしようと決心。これがブランド ポール・スミス(Paul Smith)の始まりだったのです。
会社の設立から世界へ
長い下積み時代を経た1970年(昭和45年)、遂にポール・スミス(Paul Smith)は「ポールスミス・リミテッド」を設立します。その後は仕事をするうちに専門のデザインやビジネスを学び、次第にロンドンのファッション業界で噂されるようになっていきます。4年後の1974年(昭和49年)、様々なデザイナーと関わったりショップ営業の拡大を経て、ようやく自身のオリジナルシャツを展開。アメリカの高級百貨店「バーニーズ・ニューヨーク」にて200枚のシャツを売り切ることに成功しました。
1976年(昭和51年)、初めてのショーをパリで開催。規模こそ小さなものでしたが、会場の席を用意したりショーで使われる音楽機材を自らの手で設置するなどポール・スミス(Paul Smith)本人にとって大変思い出深いショーだったようです。ショーの回数を重ねるごとにデザインコンサルタントなども務めていき、ポール・スミス(Paul Smith)はさらに腕を磨いていきます。1979年(昭和54年)になると、ついにロンドン市内にショップをオープン。その後10年で隣接した4店舗を買い足し、大規模に成長します。それと同時に世界のファッション市場に評価が広がり、1984年(昭和59年)には日本の青山に、1987年(昭和62年)にはニューヨークに、それぞれオリジナルショップが展開。次々と成功を収めていきます。こうした業績は高く評価され、後の2000年(平成12年)にエリザベス女王よりナイト爵位(SIR)を授与されています。
大の親日家 ポール・スミス(Paul Smith)
実は大の親日家としても有名なポール・スミス(Paul Smith)。2018年(平成30年)の春夏コレクションでは、鮪柄のネクタイや「TUNA」とプリントされたTシャツ、蟹の招待カード等々。思わずふふっと笑ってしまうような、けれど私たちの住む日本の食文化への深い愛を感じます。2011年(平成23年)に起きた東日本大震災でも、ポール・スミス(Paul Smith)は周りの反対を押し切り日本へと来日。国内のポール・スミス(Paul Smith)店舗のスタッフを激励したなど胸が熱くなるようなエピソードもあります。
そして、創立50周年を記念した2020年(令和2年)秋冬コレクションでは日本食品サンプルからヒントを得たスパゲッティ柄が復刻。こちらは1980年代にポール・スミス(Paul Smith)が初めて日本へと来日した際、立ち寄ったとある飲食店に置いてあったスパゲッティのサンプルに彼は一目惚れだったそうです。
こういった彼の日本好きのエピソードを聞くとポール・スミス(Paul Smith)への関心が高まり、私たち日本人にとっても誇れる事なのではないでしょうか。今回のコラムを読んだ後にポール・スミス(Paul Smith)への興味を少しでも持って頂けると幸いです。
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