プラダ(PRADA)の歴史

2018/05/12


プラダ(PRADA)のブランドイメージというと、ナイロン地のアイテムやカジュアルなコレクションをイメージされる方も多いのではないでしょうか?
しかし、その歴史を知ることにより印象はガラッと変わるのではないかと思います。そんなプラダ(PRADA)の歴史を紹介します。

プラダ(PRADA)の始まりから低迷期へ

日本ではナイロンバッグが有名なプラダ(PRADA)ですが、その始まりは、大正時代初期の1913年にイタリアのミラノにて、皮革製品の専門店としてスタートします。
創業者はマリオ・プラダとマルティーノ・プラダの兄弟。店名は「フラテッリ・プラダ(Fratelli Prada )」、イタリア語で「プラダ兄弟」や「プラダブラザーズ」のような意味です。二人は当時、世界中から集めたワニ革や蛇革などの珍しい素材や、上質な革材を用いて、高品質で上品な革製品を世の中に次々と送り出しました。
その製品は、たちまちイタリアの上流階級から評判となり、創業数年でイタリア王室御用達となりました。

その後もプラダ兄弟は、精力的に活動していましたが、時代が第一次世界大戦から第二次世界大戦に入ると、高品質な革材を手に入れることが難しくなり、また高級革製品の需要も減りました。次第に経営状態も悪化し、弟のマルティーノも兄のもとを離れ、マリオ一人での経営が続き終戦を迎えます。第二次世界大戦後のイタリアは、共和制を採択して王政廃止が決定されたため、プラダ(PRADA)の王室御用達の称号もなくなりました。
そんな失意の中、1958年に創業者であるマリオ・プラダが他界し、マリオの娘たちに事業が継承されましたが、上流階級を対象とした、高級革製品の老舗としての知名度を誇ったプラダ(PRADA)も、人々の価値観や生活スタイルなどの時代の変化に取り残され、次第にブランドとしての低迷期に突入します。

3代目ミウッチャ・プラダの登場

低迷していたブランドは、その後創業者マリオの娘ルイーザ・プラダの子供であるミウッチャ・プラダが、1978年にオーナー兼デザイナーに就任したことにより復活を果たします。マリオにとっては孫娘になるミウッチャは、現在のプラダ(PRADA)のブランドイメージを確立させた立役者です。
彼女のデザインは、「日常を贅沢に飾る」をコンセプトとし、斬新なデザインと革新的な素材を使い、プラダの歴史と伝統の調和を体現したデザインで一躍人気を博します。
特に有名なのが、祖父マリオが旅行用鞄に利用していた工業用の防水ナイロン素材「ポコノ」を用いてデザインされたナイロンバッグです。当時、高級革製品が有名であったプラダ(PRADA)のイメージを一新させました。
革よりも軽くて丈夫で撥水性に優れた「ポコノ」素材に、プラダのロゴが入った三角プレートを付けただけのシンプルなデザインのバッグやリュックサックは、たちまちヒットし、プラダの象徴として世界的なブランドへと復活を遂げます。

また、後に夫となるパトリッツィオ・ベルテッリとの出会いにより、経営戦略面でのビジネスパートナーを得て、新たなプラダのビジネス展開は目覚ましく発展していきます。

多岐にわたるビジネス展開

1990年代に入ると、93年にはプラダ(PRADA)のセカンドラインとして、ミウッチャ自身の幼少時の愛称がブランド名となった「ミュウミュウ(miu miu)」を立ち上げ、プラダよりもより幅広い年齢層をターゲットに展開していきます。

また、90年代後半にはスポーツコレクションである「プラダスポーツ」を発表し、美術プロジェクト「プラダ財団」の設立や、多数の有名ブランドの買収や売却を繰り返し、多角経営に乗り出しました。

日本では、「エピセンター」と呼ばれる旗艦店がニューヨークに続き世界で2番目に、青山にオープンし話題になりました。青山エピセンター(プラダ青山店)は、通称を「ダイヤモンド」と呼ばれ、お店というよりは巨大なアート作品のような建物として有名です。

また、ブランドイメージの戦略としてハリウッド映画へも進出します。「プラダを着た悪魔」というブランド名の入ったタイトルで、大ヒットしたこの映画は、世界的に認知度向上につながりました。

その効果からか、プラダ(PRADA)は現在でも、「サフィアーノ」「カナパ」「エスプラナード」「カイエ」「テスート」「ガレリア」などの人気シリーズから、ウサギがプリントされた「ラビット」などの新作シリーズ、また、セカンドラインであるミュウミュウ(miu miu)からは「ナッパクリスタル」「マトラッセ」「ラブコレクション」など、今もプラダが創りだした斬新なコレクションが、世界中で愛されています。

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