祝「佐渡島の金山」世界遺産登録!日本にある金鉱山について
2024/09/04
2024年7月ユネスコの世界遺産委員会は、「佐渡島(さど)の金山」を世界文化遺産として登録すること決めました。かつて“黄金の国ジパング”と呼ばれ、日本の金(GOLD)を支えた佐渡の金山。今回は念願の世界遺産登録を祝し、その歴史や日本にある金鉱山について解説させていただきます。
「佐渡島(さど)の金山」が世界文化遺産として登録
日本を代表する金山として知られる「佐渡島(さど)の金山」。1997年に世界遺産の登録に向けた運動が始まって以来長い年月を経て、日本時間の2024年7月27日インド・ニューデリーで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会にて、全会一致で世界文化遺産として登録が決まりました。この度の決定で日本国内の世界遺産は、文化遺産として21件目、自然遺産も合わせた世界遺産は26件目となります。今回は悲願の世界遺産登録を祝し、「佐渡島(さど)の金山」の歴史や日本にある金鉱山についてお話しさせていただきます。
かつてマルコ・ポーロの東方見聞録などで“黄金の国ジパング”と記され、17世紀には世界有数の質と量を誇った日本の金鉱山。なかでも日本最大級の金(GOLD)を生み出した佐渡金山は、1989(平成元)年の操業休止まで数世紀にわたり計78トンの金(GOLD)を産出しました。この度の世界文化遺産登録の評価としても、同時代の機械化が進んだ世界の金鉱山を凌ぐ手工業により質・量ともに最高水準の金(GOLD)を生み出したこと、その遺構や鉱山集落跡などが残る世界的に希少な鉱山遺跡として評価されました。また文化庁によると、佐渡金山は17世紀前半における世界の金(GOLD)生産量のおおよそ10%を占めていたとされ、手工業の技術的な到達点として最高純度99.54%を精錬したと記されています。
今回世界文化遺産として登録が決まった「佐渡島(さど)の金山」ですが、大きく「西三川砂金山」と「相川鶴子金銀山」の二つで構成された鉱山遺跡となります。佐渡は古より“金の島”と呼ばれ、「西三川砂金山」は平安時代の今昔物語集にも登場したと言われる島最古の砂金山として知られています。“大流し”と呼ばれる砂金の採取方法で本格的な稼働は室町時代15世紀中頃より始まり、明治時代初頭の1872年に閉山しましたが、当時の水路跡や役所跡等が史跡として今も残っております。能で有名な世阿弥が、佐渡国に流刑に処せられた際に書いた小謡集「金島書」にも、“佐渡の金(こがね)ノ島”と記されています。
もう一つの「相川鶴子金銀山」は鶴子(つるし)銀山と相川金銀山の総称です。越後国の商人が沖合から見ると山が光り上陸して調べたら銀が出たという逸話が残る鶴子銀山は、1542年に発見された佐渡島最大の銀山として知られています。その後1589年、越後の戦国武将・上杉景勝により支配されると開発規模は拡大し、1946(昭和21)年まで採掘が続きました。その鶴子銀山の奥山で1601年に金鉱脈が発見された鉱山こそが、のちに世界有数の産出量を誇る相川金銀山になります。国の重要文化的景観にも指定された、山が二つに割れた“道遊の割戸(どうゆうのわりと)”は、佐渡金山のシンボルとして有名です。相川金銀山をはじめ佐渡の鉱山は、江戸時代初頭の1603年に幕府の直轄地(天領)となり、甲斐武田家に仕えたのち徳川家康の元で手腕を振った大久保長安が佐渡奉行として着任すると本格的な開発が始まります。“黄金の国ジパング”の象徴として名実ともに日本最大の金銀山となる相川金銀山の坑道総延長は約400km、最深部は海面下約530mと巨大なスケールで、徳川幕府や明治政府など時の政権の財政を支えました。しかし時代を経て鉱石も徐々に枯渇し、1989(平成元)年佐渡金山の操業が全面的に休止されます。
金鉱山ってなに?
古より世界中の人々を魅了してきた金(GOLD)。空気中や水中問わず酸化しにくく錆びない特性を持ち、その輝きと希少性から珍重されてきました。そんな金(GOLD)がどのように生まれたかと言いますと、超新星爆発時の宇宙で生まれた元素という説や地球内部のマントルで生成されたとする説が謳われています。いずれにせよ数億数万年を経て地下深くのマグマに熱せられた自然金は、様々な物質に溶け出し地下の熱水とともに地表付近の岩の割れ目などを通過し、それが冷え固まったものが鉱床として現れます。そして金鉱床の存在する鉱山を金鉱山と呼びます。
金鉱山における金(GOLD)の採取方法には、金鉱床の風化や侵食により砂金として小河などに流されたものをパンニング皿等で採取する方法と、金鉱脈といった金が含まれる鉱石を採取し金を取り出す方法が主なものとなります。
749年に日本で初めて産出したと記録され、奈良東大寺の大仏にも使われた陸奥国の金(GOLD)は砂金として採取されていました。川へと流れ出た金の粒を採取する方法は容易ではありますが、大量に得るためには莫大な労力と時間が必要とされます。
一方の金鉱石から取り出す方法は、効率的で大量の採取を見込めることから16世紀以降盛んに行われるようになります。主な金鉱石の採掘手段として、戦国時代から江戸時代初頭にかけて主流であった地表に出ている鉱脈を掘り取る「露頭掘り(露天掘り)」、相川金銀山でも使われた鉱脈を探し坑道(トンネル)を掘っていく高度な技術を要する「坑道掘り」が存在します。
日本の多くの金鉱山は火山がある温泉地に存在しており、その金鉱脈を「浅熱水性鉱床」と呼び、有名な鹿児島県・菱刈鉱山の金鉱床もその一つです。
日本にある金鉱山
なぜ金(GOLD)が希少なのかわかりやすい例えで言いますと、世界中に存在する自然金は50mプール約5杯分で、これまでに採取された量は約4杯分であり、残り約1杯分しか地球上に存在しないと言われているからです。
かつて“黄金の国ジパング”と呼ばれた日本にも多くの金鉱山が存在しましたが、金(GOLD)の取りすぎで採算が合わなくなり閉山が続きました。佐渡島の金山を除く過去に閉山した歴史的に有名な金鉱山だけでも、1917(大正6)年に開山し1973(昭和48)年閉山の北海道紋別市「鴻之舞金山」、1660(万治6)年に開山し1994(平成6)年閉山の鹿児島県いちき串木野市「串木野金山」、1898年頃に開山し1972(昭和47)年閉山の大分県日田市「鯛生金山」、そして前述でも紹介した日本で初めて金(GOLD)を産出したと記録される、天平時代に開山し江戸時代初期に閉山した岩手県陸前高田市「玉山金山」などが挙げられ、そのほかにも数多の閉山した金鉱山が存在します。
一方で、現在も唯一商業規模で操業を継続している金鉱山が鹿児島県伊佐市にある「菱刈鉱山」で、1981(昭和56)年に金鉱床が発見され、1985(昭和60)年より出鉱が始まった、住友金属鉱山株式会社が運営する金鉱山です。菱刈鉱山の金鉱石は、鉱石1トンあたりに含まれる平均金量が、世界の主要金鉱山の平均3〜5gに対し平均約20gと高品位であり、1995(平成7年)にはそれまで国内最大の産金量を誇った佐渡金山を抜いて日本一となりました。今も国内の産金量9割以上を占める金鉱山として知られています。
昨今、地球上の産金量がピークに達したとする「ピーク・ゴールド説」が現実味を増してきましたが、「海底鉱山」や「都市鉱山」への期待も膨らみつつあります。
海底鉱山とは名前の通り海底にある「海底熱水鉱床」を指し、沖縄県近海や伊豆諸島の青ヶ島沖海底に眠る金鉱脈が発見されています。レアメタルを含む新時代の金鉱山として期待されているものの、商業化するにはコスト面を踏まえ課題が多く、金(GOLD)を回収する技術開発が進められています。
そしてもう一つの都市鉱山は鉱山といっても山ではなく、パソコン・携帯電話など我々の身の回りにある精密機器や家電製品等に使われている金・銀・銅といった金属の山であり、大量廃棄により生まれるそれら工業製品からリサイクル可能な有用金属として資源活用する取り組みに期待が寄せられています。日本は都市鉱山から有用な金属を回収する優れた技術を持っており、佐川急便グループではすでに事業化も始まっております。また、2020年東京オリンピック・パラリンピックのメダルも都市鉱山から回収された金・銀・銅が活用され話題になりました。
最後に、アメリカ地質調査所(USGS)の調査によると地球上に眠る金(GOLD)の埋蔵量はあと約6万トンと発表しており、このままのペースで採掘したらおおよそ16年〜20年後には掘り尽くされてしまうと言われています。ここ数年は金相場も記録的な高値を更新しており、ますます希少価値が増す傾向にあります。今回世界遺産に登録された「佐渡島(さど)の金山」は閉山したものの、約400年の歴史ロマンを伝える鉱山遺跡であり、日本にとって古の人々と金(GOLD)のつながりを体感できる最高の遺産と言えるでしょう。