プラダを生き返らせた女性デザイナー|ミウッチャ・プラダ
2017/03/27
アメリカのタイム誌では「世界で最も影響のある100人」、ファッション誌のヴォーグアメリカでは「ファッションの未来を切り開く7人」に選ばれたプラダのオーナー兼デザイナーのミウッチャ・プラダ。
実は彼女、学生の頃はファッションについてでは無く政治について勉強していたそうです。
また、普段は人前に姿を現すことは滅多に無いんだとか。
そんなファッションとは無縁だった人生の中、低迷期のプラダを救い、そのデザイン性を世では天才と謳われている彼女、ミウッチャ・プラダについてご紹介します。
最初は気乗りしないまま手伝わされていた。
改めて彼女の人生を振り返ってみますと、実に面白さと驚きの詰まった生き方だなと感じてしまいます。
というのも冒頭でお伝えしましたが、学生の頃は政治の勉強をしていた彼女は大学で博士号を取得していたのです。
70年代には共産党に入り女性開放運動に参加し、先頭を切っていたのだそうです。
彼女の人生が大きく変化したのは1978年。
母親からファミリービジネスであるプラダに入り手伝って欲しいと言われ、気乗りしないまま彼女は仕事を任されます。
まさかここからファッションについて皆無に等しいミウッチャ・プラダが低迷期に入っていたプラダを復活させることは当時誰も想像していなかったのではないでしょうか。
プラダ復活への一打
ミウッチャ・プラダがプラダに入った当時は、長きに渡る苦しい低迷期でした。
プラダの創業時は彼女の祖父であるマリオ・プラダが世界中から集めた珍しい革を作った製品が評判を呼んでおりましたが、時代の変化によりその人気は途絶えてしまいました。
やがてマリオ・プラダも亡くなってしまい、中々次へのきっかけとなる糸口が見いだせない状況の中1985年、ミウッチャ・プラダがプラダ復活への一打を放ちます。
それは「ポコノ」と呼ばれる軽くて丈夫なナイロン素材を使ったバッグでした。
今までレザー製品を扱ってきたプラダにとってそれは未知なる素材でした。
しかし、彼女はわかっていました。
世に生きる女性たちには必要とされるバッグになると。
結果は彼女の想像を超えた大ヒットを記録。
この革新的で斬新なデザインは瞬く間に世界中から大きく注目を浴びます。
そこから、靴、1989年には婦人服を展開し本格的に総合ファッションブランドへと移行していきます。
その名の由来は彼女の幼少期についたあだ名でした。
1993年、プラダのセカンドブランドとしてmiumiu(ミュウミュウ)が誕生します。
プラダよりも価格を抑え、女性の心を惹きつける可愛らしいさを意識して作られたバッグや財布、アパレルは若い年代の女性たちを中心に人気となります。
このミュウミュウとは、ミウッチャ・プラダが幼少期の頃に付いたニックネームだったそうです。
また、メンズも展開しているミュウミュウですが日本では比較的レディースが目立っているかと思われます。
今もなお、ミウッチャ・プラダを中心に年2回にプラダとミュウミュウのコレクションを発表しておりますが、そんな彼女にも自身を支えてくれる存在がいます。
現プラダグループのCEOであり彼女の夫でもあるパトリッツィオ・ベルテッリです。
世間ではプラダを支えるパワーカップルとも言われております。
時にはお互いの意見が合わず、衝突してしまうこともあるそうですが、「彼がいなかったら私はきっとどこかで断念していた。」とミウッチャ・プラダは言います。
2014年にはロンドンにてミウッチャ・プラダの展覧会「プラダ・スフィア展」が開催されました。
ここには彼女がファッションに対するこだわりや、その異例ともいえるキャリアなどなど。
彼女の魅力が詰め込まれた展覧会でした。
展覧会に足を運んだ方々が彼女の才能に魅了されたのはいうまでもないでしょう。
今後も世界を股にかけて活躍する彼女がデザインしたプラダ、ミュウミュウ。
皆様も一度手に取ってミウッチャ・プラダの魅力を感じてみませんか。